CLUB AMY 365

山田詠美の文章をご紹介。詠美さんご本人の掲載許可済です。

小説『熱帯安楽椅子』

Day 281st 熱帯安楽椅子

今思うと、私があれ程、嫌悪して、そして逃れられなかった肉体、それが私の心や行動を支配するということは、ありがちのことのように思える。それは、とても具体的であるから。けれど、その逆は生きて行く中で一度あるかないかのように思える。始まりは、い…

Day 280th 熱帯安楽椅子

私は口がきけなかった。私はこの島の夕陽を知っていたが、夕陽の忘れものを知らなかった。波は砂を舐めて動き、転がる金の雫は夕暮れの闇に混じって藍色になる。金箔は足許ではかなくたゆたい、私は泣きたくなる。山田詠美「熱帯安楽椅子」『熱帯安楽椅子』…

Day 279th 熱帯安楽椅子

彼は静かに指を差した。私はその方向に目をやり息を飲んだ。濡れた砂は沈んだばかりの夕陽を吸い込んで私たちの前に広がっていた。それは海に落ちる夕陽の色よりもはるかに赤いのだった。白い砂は打ち寄せる静かな波のベールをかけて黒く化粧をする。そして…

Day 278th 熱帯安楽椅子

嫉妬は、私の場合、肉体から生まれた。肉体を束縛したいと思うことから始まっていた。今、この島で私はそうは思わない。私は瞬間という言葉を愛する。それは、空気であり、それを作り出す男の肌であり、私へのいたわりに満ちた男の瞳であり、それを受け止め…

Day 277th 熱帯安楽椅子

肉体が心を支配した。それに気付いた女は、どれ程自分を哀しく感じるか、男たちは知っているだろうか。どうしてなのだろう。私はひとりきりでそう考えていた。あの自分の体に快楽を与えいていただけの棒がいったい何故、こんなにも私をせつなくさせるのだろ…

Day 276th 熱帯安楽椅子

私は彼の心に嫉妬することはなかった。ただ彼の肉体に嫉妬していた。私が男を愛する方法。それは体を与えて体を奪うということだったのだ。つたない私を彼はどんなに蔑んでいただろうか。飴玉を取り上げられ拗ねているただの子供。彼はきっと私のことをそう…

Day 275th 熱帯安楽椅子

私は自分の体の上にある男の皮膚を愛している。そして、その皮膚が生み出す私への愛情を私は愛している。私が彼を愛していると知らせたくて体を反応させる。そして、それを知った彼は自分もそうなのだと伝えたくて体を使って見せる。愛することは気楽だ。そ…

Day 274th 熱帯安楽椅子

男は私のなりゆき。そして、それこそが私の愛するものであったことを私は思い起こす。男の肌はいとしい。そして、男の吐息が調合する空気はかけがいのないものだ。愛しているという言葉、それはただの音楽だ。美しい音楽。軽々しく使われるべきあどけない言…

Day 273rd 熱帯安楽椅子

私はぼんやりと雨を聴く。何度、この音を聴いたことだろう。時には同じ音、そして時には違う音。いずれにせよ、今日のように熱い調べを私は聴いたことがない。何故だろう。何故、今日は違って聴こえるのだろう。私の心臓は雨の音に同調する。私の皮膚は譜面…

Day 272nd 熱帯安楽椅子

私は急速に喉の乾きを覚える。激しくなりつつある雨がポーチに降りかかる。けれど、私の乾きは雨では癒せない。山田詠美「熱帯安楽椅子」『熱帯安楽椅子』より ここでいう「喉の乾き」というのは、具体的にはどういうことを言うのであろうか。それは心の乾き…

Day 271st 熱帯安楽椅子

ワヤンが鍵を開けている間、私は屋根付きのポーチに置いてある籐椅子に腰をかける。そして、濡れたサンダルを足から外すために、テーブルに片足を載せる。サルンの前が割れ、私の脚の間からは暖まった匂いが流れ出して、ジンのそれに溶ける。山田詠美「熱帯…

Day 270th 熱帯安楽椅子

それになにより私に具体的な快楽を与えるとても物覚えのよい器官を持っている。そして、品の良い言葉を。必要のない、だからこそ、美しい音楽のように私の耳を濡らす言葉を。彼はひかえめな冗談も好きだ。私をくすぐる甘い冗談。私の指が生み出す心の吐瀉物…

Day 269th 熱帯安楽椅子

私は自分の喉に届くものをすべて受け入れる。けれど、時には私の力の脱けた唇は彼の口づけをこぼしてしまうこともある。そんな時だけ、彼は少し意欲を持ち私の顎を片手でつかみ上を向かせる。決して押しつけがましくないやり方で。彼は私の心を、そして体す…

Day 268th 熱帯安楽椅子

私は寺院の塀に寄りかかりワヤンと口づけをかわす。人気のない場所で私たちが目を合わせると彼の瞳は私に向かって溶けて来る。私は彼の唇を啜り込みながら、落ち着いてそれを味わう。それは酒のように芳醇ではなく、水のように乾きを癒すわけでもない。口に…

Day 267th 熱帯安楽椅子

私は、あの時、自分の心の中で嫌悪と愛情が口づけをかわしながら踊るのをはっきりと見た。そして、それは執着。執着という形で生き延びるのだ。私は、あの時、とても生きていた。望んで生きるということは諦めを知らないということだ。可哀想に。私は今、あ…

Day 266th 熱帯安楽椅子

私はワヤンに抱かれ続けた。夜が明けるまで。彼は私を胸や腕や肩で抱く。そして、私は彼を溜息や叫びや快楽を訴える表情で抱く。私は男をそうして抱くのが好きだ。私の体は、とても饒舌になる。シーツから浮き上がった腰。彼の髪を梳く指。汗で毛の数本を引…

Day 265th 熱帯安楽椅子

漁師が砂を踏む音は鉄道員が雪を踏む音に似ている。音の主が見えない。けれど、証拠としての足跡はひとつひとつ残されて行く。何故、私はこんな時に冷たい雪を思い出すのか。情事の後の砂は、時折、雪に似てはかない。銀色。冷たい。熱い。そして溶ける。山…

Day 264th 熱帯安楽椅子

木立の隙間で、月は切り抜かれた金色の紙。砂は逆らわないのにそこに映える草は私の背中を刺したがる。波は木々の向こうで生きている。私は横たわったまま放心している。やっと給仕された私の夕食。降り注ぐ星が層を成す彼の裸の背。私の髪は砂に流されて風…

Day 263rd 熱帯安楽椅子

ワヤンという名前を私は彼のシャツのネームタグで覚えた。この島に数多くばらまかれている記号のような名前。私は沢山のワヤンを知っている。沢山のワヤンに触れたことがある。けれどその名前はひとつだけなのだ。私はワヤンの肌を知っている。この一文で私…

Day 262nd 熱帯安楽椅子

私は楽をしたいと思っている。それは、もしかしたら、また小説を書きたいと思っていることを表わしているのかもしれない。私は、苦悩の中から物語を見出すあのご苦労な人々とは違っているのだから。私の指は役目を失くした怠惰な日常をものにすることで初め…

Day 261st 熱帯安楽椅子

このようなお遊びを私は今まで文字に変えてお金を稼いで来た。それはとても許しがたいことだと人々の目には映ったことだろう。けれど、彼らにはどうすることも出来なかった。彼らは私を特別だと思っていたし、そして、私が好きだった。私の行動、そしてこの…

Day 260th 熱帯安楽椅子

私が快楽を乗り越えるまで止んではいけない。私は雨にそう言う。私たちの小さな箱には覆いが必要だ。その内側で、空気は濃密になり過ぎて結晶を作る。熱帯のスコールはあくまで毅然としていて、私は少し恥じる。目の前にある湿った肌を吸い取り紙に使う私自…

Day 259th 熱帯安楽椅子

私は彼の髪をつかみ上に向かせて唇を奪う。そこには私が裂け目から湧き出させる快楽が流れている。そこに棲息しているあの男の欲望の産物を私は殺すのだ。私は彼の股間に口をやる。南の国の熱。私の心は消毒されて行く。水田は溢れる。そして、私たちは溺れ…

Day 258th 熱帯安楽椅子

雨は止まない。私たちの遊びは続く。外は洪水になり、私の記憶は霧になる。目に入るのはグダン・ガラムの赤い箱。そして、決して私を探ろうとはしない私の太股に置かれた彼の左の手。私は溜息をつく。そして、彼も。何故なら私の右ても彼の脚の間を可愛がっ…

Day 257th 熱帯安楽椅子

蜂蜜は巣ごと新聞紙の上で売られている。お尻を穴から出したまま死んでしまった蜂たち。蜜にくるまっているおいしい死骸。私もそのうち、きっとそういうふうになる。山田詠美「熱帯安楽椅子」『熱帯安楽椅子』より このシーンも読者に強烈な印象を残す。『熱…

Day 255th 熱帯安楽椅子

果物は強過ぎる香水のように私の頭を痛くする。山田詠美「熱帯安楽椅子」『熱帯安楽椅子』より 何気ない文章なんだけど、香水好きだし、バリ島の市場でぼくもまったく同じことを思ったので、思わずこの部分だけを取り上げてしまいたくなったのだ。バリ島の朝…

Day 254th 熱帯安楽椅子

太陽は真上にある。デンパサール市内に入ると急に空気は動き始める。果物籠を頭に載せた女たちが歩きまわり、甘い匂いを振りまいている。子供たちは路上にしゃがみ込み臓物のスープを啜り上げる。その強烈な匂い。私は好奇心に駆られて運転手を促して車を降…

Day 234th 熱帯安楽椅子

卵は目を閉じて微笑する。私は目を開けたまま微笑する。甘いオレンジのプレザーブ。私はパンをかじりコーヒーを啜る。シャンペンの泡は舌の上で消え、喉許を親切に通り過ぎる。すべては幸福に見える。すべてが幸福に。山田詠美「熱帯安楽椅子」『熱帯安楽椅…

Day 233rd 熱帯安楽椅子

南の国の生暖かい風。ブラインドの代わりを果す椰子の葉。グダン・ガラムは私の香水にある。きっと。私は自堕落な死体になる。あるいは、物解りの良い人形に。腐臭を漂わせない死体になることが、どれ程困難であるかに、まだ私は気付いてはいない。山田詠美…

Day 232nd 熱帯安楽椅子

私はもののの見えるめくらになる。テラスを行き来する十二インチ程もある蜥蜴、そして明らかに私に興味を抱き始めた制服のウェイターの鳶色の瞳などだけが私の角膜を刺激する。私は微笑することが出来る。朝のピンクシャンペンに酔ったうすら笑いを浮かべる…