CLUB AMY 365

山田詠美の文章をご紹介。詠美さんご本人の掲載許可済です。

2023-09-01から1ヶ月間の記事一覧

Day 273rd 熱帯安楽椅子

私はぼんやりと雨を聴く。何度、この音を聴いたことだろう。時には同じ音、そして時には違う音。いずれにせよ、今日のように熱い調べを私は聴いたことがない。何故だろう。何故、今日は違って聴こえるのだろう。私の心臓は雨の音に同調する。私の皮膚は譜面…

Day 272nd 熱帯安楽椅子

私は急速に喉の乾きを覚える。激しくなりつつある雨がポーチに降りかかる。けれど、私の乾きは雨では癒せない。山田詠美「熱帯安楽椅子」『熱帯安楽椅子』より ここでいう「喉の乾き」というのは、具体的にはどういうことを言うのであろうか。それは心の乾き…

Day 271st 熱帯安楽椅子

ワヤンが鍵を開けている間、私は屋根付きのポーチに置いてある籐椅子に腰をかける。そして、濡れたサンダルを足から外すために、テーブルに片足を載せる。サルンの前が割れ、私の脚の間からは暖まった匂いが流れ出して、ジンのそれに溶ける。山田詠美「熱帯…

Day 270th 熱帯安楽椅子

それになにより私に具体的な快楽を与えるとても物覚えのよい器官を持っている。そして、品の良い言葉を。必要のない、だからこそ、美しい音楽のように私の耳を濡らす言葉を。彼はひかえめな冗談も好きだ。私をくすぐる甘い冗談。私の指が生み出す心の吐瀉物…

Day 269th 熱帯安楽椅子

私は自分の喉に届くものをすべて受け入れる。けれど、時には私の力の脱けた唇は彼の口づけをこぼしてしまうこともある。そんな時だけ、彼は少し意欲を持ち私の顎を片手でつかみ上を向かせる。決して押しつけがましくないやり方で。彼は私の心を、そして体す…

Day 268th 熱帯安楽椅子

私は寺院の塀に寄りかかりワヤンと口づけをかわす。人気のない場所で私たちが目を合わせると彼の瞳は私に向かって溶けて来る。私は彼の唇を啜り込みながら、落ち着いてそれを味わう。それは酒のように芳醇ではなく、水のように乾きを癒すわけでもない。口に…

Day 267th 熱帯安楽椅子

私は、あの時、自分の心の中で嫌悪と愛情が口づけをかわしながら踊るのをはっきりと見た。そして、それは執着。執着という形で生き延びるのだ。私は、あの時、とても生きていた。望んで生きるということは諦めを知らないということだ。可哀想に。私は今、あ…

Day 266th 熱帯安楽椅子

私はワヤンに抱かれ続けた。夜が明けるまで。彼は私を胸や腕や肩で抱く。そして、私は彼を溜息や叫びや快楽を訴える表情で抱く。私は男をそうして抱くのが好きだ。私の体は、とても饒舌になる。シーツから浮き上がった腰。彼の髪を梳く指。汗で毛の数本を引…

Day 265th 熱帯安楽椅子

漁師が砂を踏む音は鉄道員が雪を踏む音に似ている。音の主が見えない。けれど、証拠としての足跡はひとつひとつ残されて行く。何故、私はこんな時に冷たい雪を思い出すのか。情事の後の砂は、時折、雪に似てはかない。銀色。冷たい。熱い。そして溶ける。山…

Day 264th 熱帯安楽椅子

木立の隙間で、月は切り抜かれた金色の紙。砂は逆らわないのにそこに映える草は私の背中を刺したがる。波は木々の向こうで生きている。私は横たわったまま放心している。やっと給仕された私の夕食。降り注ぐ星が層を成す彼の裸の背。私の髪は砂に流されて風…

Day 263rd 熱帯安楽椅子

ワヤンという名前を私は彼のシャツのネームタグで覚えた。この島に数多くばらまかれている記号のような名前。私は沢山のワヤンを知っている。沢山のワヤンに触れたことがある。けれどその名前はひとつだけなのだ。私はワヤンの肌を知っている。この一文で私…

Day 262nd 熱帯安楽椅子

私は楽をしたいと思っている。それは、もしかしたら、また小説を書きたいと思っていることを表わしているのかもしれない。私は、苦悩の中から物語を見出すあのご苦労な人々とは違っているのだから。私の指は役目を失くした怠惰な日常をものにすることで初め…

Day 261st 熱帯安楽椅子

このようなお遊びを私は今まで文字に変えてお金を稼いで来た。それはとても許しがたいことだと人々の目には映ったことだろう。けれど、彼らにはどうすることも出来なかった。彼らは私を特別だと思っていたし、そして、私が好きだった。私の行動、そしてこの…

Day 260th 熱帯安楽椅子

私が快楽を乗り越えるまで止んではいけない。私は雨にそう言う。私たちの小さな箱には覆いが必要だ。その内側で、空気は濃密になり過ぎて結晶を作る。熱帯のスコールはあくまで毅然としていて、私は少し恥じる。目の前にある湿った肌を吸い取り紙に使う私自…

Day 259th 熱帯安楽椅子

私は彼の髪をつかみ上に向かせて唇を奪う。そこには私が裂け目から湧き出させる快楽が流れている。そこに棲息しているあの男の欲望の産物を私は殺すのだ。私は彼の股間に口をやる。南の国の熱。私の心は消毒されて行く。水田は溢れる。そして、私たちは溺れ…

Day 258th 熱帯安楽椅子

雨は止まない。私たちの遊びは続く。外は洪水になり、私の記憶は霧になる。目に入るのはグダン・ガラムの赤い箱。そして、決して私を探ろうとはしない私の太股に置かれた彼の左の手。私は溜息をつく。そして、彼も。何故なら私の右ても彼の脚の間を可愛がっ…

Day 257th 熱帯安楽椅子

蜂蜜は巣ごと新聞紙の上で売られている。お尻を穴から出したまま死んでしまった蜂たち。蜜にくるまっているおいしい死骸。私もそのうち、きっとそういうふうになる。山田詠美「熱帯安楽椅子」『熱帯安楽椅子』より このシーンも読者に強烈な印象を残す。『熱…

Day 256th 熱帯安楽椅子

私は、転がっている熱帯の果物を踏まないように市場の中を通過する。折りたたまれたバナナの葉に流し込まれた粥を無心に食べ続ける少年。その濡れた唇は反吐を吐いたばかりのように見える。唾液の含まれたおいしい食べ物。私に不快感はない。目の前にくり広…

Day 255th 熱帯安楽椅子

果物は強過ぎる香水のように私の頭を痛くする。山田詠美「熱帯安楽椅子」『熱帯安楽椅子』より 何気ない文章なんだけど、香水好きだし、バリ島の市場でぼくもまったく同じことを思ったので、思わずこの部分だけを取り上げてしまいたくなったのだ。バリ島の朝…

Day 254th 熱帯安楽椅子

太陽は真上にある。デンパサール市内に入ると急に空気は動き始める。果物籠を頭に載せた女たちが歩きまわり、甘い匂いを振りまいている。子供たちは路上にしゃがみ込み臓物のスープを啜り上げる。その強烈な匂い。私は好奇心に駆られて運転手を促して車を降…

Day 253rd Crystal Silence

「私、あの島で色々なものを味わったわ。甘いお砂糖。苦い海の生きもの。塩辛い海の水。でも、一番おいしかったのって、彼の私に向けられたあの視線だったわ」 ちょうど、そのお酒のように? 私は心の中でマリに問いかける。彼女は泣き笑いをしながら、グラ…

Day 252nd Crystal Silence

「割りきってるの?」「まさか⁉ 私、そんなに大人じゃない。ううん、大人だったら、余計そう。遊びじゃない、真剣になって恋に落ちる瞬間が、そんなに沢山はやって来ないこと、よく解ってる。私、彼が好きよ」山田詠美「Crystal Silence」『放課後の音符』よ…

Day 251st Crystal Silence

そういう付属品が、もしなかったとしても、素敵な人間って、いったい私のまわりにどれだけいるだろうか。空や海や砂の中に裸で立っただけで、他の人を幸福にさせるような人なんて、どのくらいいるだろうか。音楽をバックグラウンドにしてロマンスを生むこと…

Day 250th Crystal Silence

私たちの生活って、色々なディティルによって動かされすぎているんじゃないかと、時々思ってしまう。たとえば、あそこのブランドのお洋服が欲しいからアルバイトをするとか、誰々は、どこそこのお店に出入りしているから格好いいとか。でも、それは自分の価…

Day 249th Crystal Silence

その内、彼の顔がはっきり見えるようになったから、陽ざしに目が慣れて来たのかしらと思ったけど、時間がたって、太陽が動いたのね。彼の影が、私の顔の上に落ちていた。まるで日時計みたい。そう思うと、ますます彼がいとしくなったわ。体は、じりじりと灼…

Day 248th Crystal Silence

陽ざしが眩しくて、彼のことも見えなかったわ。彼は、それなのに静かな目で私を見ていたみたい。太陽は彼の背中の上にあったから、瞳をよく働かせることが出来たのね。彼の耳が聴こえないように、私の目も見えなかった。私たち、ちょっとかわいそうな動物み…

Day 247th Crystal Silence

「今、思い出すと、彼の体が海の水以外のもので濡れるのって、私と愛し合った時だけだったみたい」 本当に熱かったのね。私は心の中でそう呟いて、見たこともない南の島の少年を思い浮かべる。そして、男にとって、好きな女の子が流させた汗というのは、どう…

Day 246th Crystal Silence

「ロマンティックね」「というより、なんだか悲しい気持だった」「どうして?」「あまりに幸せだったから」 私は彼女の気持が解るような気がする。陽ざしがあまりに明るいと目の前が暗くなるように、人の心にも余分な影を落とす程の幸福というのがあるものだ…

Day 245th Crystal Silence

「彼は誘って、私は誘わせたわ。ううん、どちらからともなくって感じかなあ。彼は、じっと私を見詰めてた。私のことを欲しいんだって、よく解ったわ。私も彼と同じように瞳を使ったの。えっ? どういうふうにって……欲しいものがこんなに目の前にあるのに、ま…

Day 244th Crystal Silence    

「私の口も、その時、きけなかったわ。耳だって聴こえなかったわ。あんなに騒がしい波の音だってよ。でもね、音のないものの音が、聴こえる瞬間て、恋をしているとあるものなのよ」山田詠美「Crystal Silence」 『放課後の音符』より 恋をしている瞬間にいつ…