CLUB AMY 365

山田詠美の文章をご紹介。詠美さんご本人の掲載許可済です。

Day 281st 熱帯安楽椅子

 今思うと、私があれ程、嫌悪して、そして逃れられなかった肉体、それが私の心や行動を支配するということは、ありがちのことのように思える。それは、とても具体的であるから。けれど、その逆は生きて行く中で一度あるかないかのように思える。始まりは、いつも肉体である。セックスを含む、目や口や鼻を通しての肉体がすべてを始めるのだ。そして、なりゆきは心である。
山田詠美「熱帯安楽椅子」
『熱帯安楽椅子』より

ぼくが『熱帯安楽椅子』を初めて読んだ時、衝撃を受けた文章がこの場面だ。

始まりは、いつも肉体である。セックスを含む、目や口や鼻を通しての肉体がすべてを始めるのだ。そして、なりゆきは心である。

この文章は本当に名言だと思うし、後世に残るべき文章なのではないだろうか。なんだったら、現代文学における金字塔とも言える文章だと思う。
今まで、日本の文学で、ここまで的確に、心と体の関係を言語化した作家はいるだろうか?
そう、最初は誰しもが肉体から入る。いわゆる見た目というものだ。しかし、それはルッキズムというのとはまた少し違うように思う。
前にもこのブログで書いたが、心というのは目に見えないあいまいなものだ。しかし、体(つまり見た目)というのは、具体的で、感覚的に惹かれ合う部分でもある。まずはそこ、なのではないか。
この作品の文庫本は森瑤子が書いているのだが、彼女もこの文章を取り上げて

けだし名言である。大げさでも何でもなく今世紀最高の名言だ。ふざけているわけでもない。歴史に記されるべき名言だ。私は大真面目でそう思っている。

と書いている。
それを読んだ時、やっぱりぼくの解釈はまったく間違っていなかったと確信した。

この文章で大切なところは、「始まりは体~なりゆきは心」という部分。大事なことは、なりゆきが心であるということだ。肉体だけがいくら相性良くても、その先を続けて行くのはあとはもう、心のつながりしかない。
最初に心のつながりがあって、そこから始まるのって、よく言われることだけど、それでも、やはり見た目がまったくタイプじゃなかったり、そこに情は生まれないとぼくは思っている。
で、体だけじゃなくて、心もしっかりと繋がっているという実感があるからこそ、恋愛はバランスよく続くのだ。
本当にこれは、名言中の名言。
【DATA】
山田詠美「熱帯安楽椅子」
集英社文庫『熱帯安楽椅子』
KEN'S NIGHT M5レフィル<夜景摩天楼>
KEN'S NIGHT 1st Track 06 My Favorite Things

Day 280th 熱帯安楽椅子

私は口がきけなかった。私はこの島の夕陽を知っていたが、夕陽の忘れものを知らなかった。波は砂を舐めて動き、転がる金の雫は夕暮れの闇に混じって藍色になる。金箔は足許ではかなくたゆたい、私は泣きたくなる。
山田詠美「熱帯安楽椅子」
『熱帯安楽椅子』より

昨日の夕陽の場面の続きである。
砂を舐めるように照らす夕陽のことを「夕陽の忘れもの」と表現し、さらにその後の美しい言葉の数々に、詠美の描写力の高さを感じる。
この作品のハイライトというのも解ってもらえるだろう。
しかも、この作品全体を通して読んでいると、よりこの場面の美しさも際立つし、そして、耳も聞こえない、話も出来ないトニが私を連れて来ることで、愛の告白をしたというのも納得できる。
【DATA】
山田詠美「熱帯安楽椅子」
集英社文庫『熱帯安楽椅子』
KEN'S NIGHT M5レフィル<波乗夏休暇>
KEN'S NIGHT 2nd Bonus Track I Feel Pretty

Day 279th 熱帯安楽椅子

 彼は静かに指を差した。私はその方向に目をやり息を飲んだ。濡れた砂は沈んだばかりの夕陽を吸い込んで私たちの前に広がっていた。それは海に落ちる夕陽の色よりもはるかに赤いのだった。白い砂は打ち寄せる静かな波のベールをかけて黒く化粧をする。そして、その上には夕陽の薄絹が静かに横たわる。
山田詠美「熱帯安楽椅子」
『熱帯安楽椅子』より

このシーンは「熱帯安楽椅子」のハイライトシーンと言えるだろう。もっとも印象に残る場面だ。
数年前、定期的に行われている朗読会で、始まる前詠美さんが「今日は健ちゃんの好きな小説読むよ」と教えてくれて、その時、ぼくがまっさきに読んで欲しいと思ったシーンがこの夕陽のシーンだったのだが、ぼくの予感があたり、詠美さんはその前後のシーンを朗読してくれて、ぼくは詠美さんの声を耳を通してこの作品を堪能することができた。
今までぼくはこんな夕陽を見たことがないので、これから先、こういう夕陽を見ることはあるのだろうか?とうっとりとしてしまった。
【DATA】
山田詠美「熱帯安楽椅子」
集英社文庫『熱帯安楽椅子』
KEN'S NIGHT M5レフィル<波乗夏休暇>
KEN'S NIGHT 1st Track 02 Autumn in New York

Day 278th 熱帯安楽椅子

 嫉妬は、私の場合、肉体から生まれた。肉体を束縛したいと思うことから始まっていた。今、この島で私はそうは思わない。私は瞬間という言葉を愛する。それは、空気であり、それを作り出す男の肌であり、私へのいたわりに満ちた男の瞳であり、それを受け止めることの出来た時の雨、あるいは太陽の陽ざしである。私の愛情は今、粘り気を失ってさらさらとした金粉になる。いつでも、つまむことが出来て、そして、おいしい。私は嬉しさになくことすら出来る程に、その瞬間、真摯になる。
山田詠美「熱帯安楽椅子」
『熱帯安楽椅子』より

嫉妬というのは、一体どういう心理なのだろうか。
特に性愛における嫉妬とはなんだろう。
肉体を束縛すること、他の人には相手の肉体を渡したくないという気持ちの表れが、嫉妬につながるといことなのだろう。そして、それは束縛ということでもある。
しかし、「私」はこの島で、その束縛から逃れ、その瞬間瞬間でワヤンとの情事を続ける。ここで、「男をひとりだけ選んで愛してしまった」過去の呪詛から解放されるのだろう。
【DATA】
山田詠美「熱帯安楽椅子」
集英社文庫『熱帯安楽椅子』
KEN'S NIGHT M5レフィル<美酒摩天楼>
KEN'S NIGHT 3rd Track 06 The Days of Wine and Roses ※ラメ入り

Day 277th 熱帯安楽椅子

 肉体が心を支配した。それに気付いた女は、どれ程自分を哀しく感じるか、男たちは知っているだろうか。どうしてなのだろう。私はひとりきりでそう考えていた。あの自分の体に快楽を与えいていただけの棒がいったい何故、こんなにも私をせつなくさせるのだろう。あの寂しさを埋めるだけの海綿が、何故、こんなにも重大な意味を持つのだろう。私は自分をせせら笑う。そして、冷静になる。その後、静まった心の内側から哀しみはまた姿を現わすのだ。私は男の脚の間に男の心が溶けているとでも思い込んだのだろうか。
山田詠美「熱帯安楽椅子」
『熱帯安楽椅子』より

ここでもまた肉体と心の関係が執拗に描かれている。体を重ね合わせるたびに情が生まれ、そこから離れられなくなっていく。そして、そこに嫉妬心が生まれ、相手を束縛し、そしてそれによって自分をも束縛することになる。その過程をこのように言語化し、そして、それをバリ島という特殊な南国の島を舞台に描いているところにこの作品の面白さがある。
日本で別れを告げた男と、バリ島で知り合ったワヤンという男という二項対立を生み出すことで、その問題を解決しようとしていて、そこに読者は共感するのだ。
【DATA】
山田詠美「熱帯安楽椅子」
集英社文庫『熱帯安楽椅子』
KEN'S NIGHT M5レフィル<彩酒摩天楼>
KEN'S NIGHT 2nd Bonus Track Frozen

Day 276th 熱帯安楽椅子

 私は彼の心に嫉妬することはなかった。ただ彼の肉体に嫉妬していた。私が男を愛する方法。それは体を与えて体を奪うということだったのだ。つたない私を彼はどんなに蔑んでいただろうか。飴玉を取り上げられ拗ねているただの子供。彼はきっと私のことをそう思っていた。
山田詠美「熱帯安楽椅子」
『熱帯安楽椅子』より

ここでの「彼」というのは、日本にいる「ひとりだけ選んで愛してしまった」男のことである。
山田詠美の小説にはどれも、心と体の関係というテーマが根底に流れている。それは、デビュー作からずっと一貫している。
心というのは、目に見えないものだ。非常に抽象的で不確かなもの。しかし、体は目に見えるものだから、もっと具体的だ。しかし、どちらかに執着してしまうと、バランスを崩してしまう。
だから、嫉妬という感情が生まれるのではないだろうか。
そんなことをこの文章から思った。
【DATA】
山田詠美「熱帯安楽椅子」
集英社文庫『熱帯安楽椅子』
KEN'S NIGHT M5レフィル<祝祭摩天楼>
KEN'S NIGHT 1st Track 11 Smile ※ラメ入り

Day 275th 熱帯安楽椅子

私は自分の体の上にある男の皮膚を愛している。そして、その皮膚が生み出す私への愛情を私は愛している。私が彼を愛していると知らせたくて体を反応させる。そして、それを知った彼は自分もそうなのだと伝えたくて体を使って見せる。愛することは気楽だ。そして、暖かい。
山田詠美「熱帯安楽椅子」
『熱帯安楽椅子』より

詠美にとって、セックスというのは、男女平等のものだ。男が女を悦ばせるのと同じように、女も積極的に男を悦ばせようとする。そのことが良くわかる文章がこの「熱帯安楽椅子」には随所に現れる。
そして、「愛することは気楽だ」という言葉。これは、昨日も書いたように、「男をひとりだけ選んで愛してしまった」からこそ、そうならないように自分に言い聞かせているのかもしれない。ワヤンというバリ島のホテルで出会った男と関係を持ち、でも、深刻にならないように体を合わせて行く。それは実はとても難しいことなのかもしれない。
体を何度も重ねて行くうちに情が沸くことも多いからね。
詠美のこの作品を読んでいると、そんな愛することの難しさとか、自分の気持と肉欲のバランスのとり方の難しさをいつも感じてしまう。
【DATA】
山田詠美「熱帯安楽椅子」
集英社文庫『熱帯安楽椅子』
KEN'S NIGHT M5レフィル<流星摩天楼>
KEN'S NIGHT 3rd Track 11 You and the Night and the Music